菜食主義でも不殺生ではない事実

  • 2019.12.20 Friday
  • 17:54

 こんにちは、おくらです。私は菜食ライフを

はじめて、まもなく6年目に入ります。

ちょっとした興味から菜食をはじめましたが、

最近、切に感じたことがありました。

 

 それは、どんなに菜食主義でも、

生き物を殺さずに生きてはいけないということです。

仏教には「不殺生戒」という戒律があります。

<ブログ内 関連記事>

★仏教徒が守るべき戒

http://rakutonasu27.jugem.jp/?day=20180411

★菩薩の修行「六波羅蜜」その1

http://rakutonasu27.jugem.jp/?day=20180416

★菩薩の実践「六波羅蜜」その2

http://rakutonasu27.jugem.jp/?day=20180417

 

 不殺生戒とは、「生き物を殺してはいけない」

という意味なのですが、不殺生のために

ベジタリアンになった人は大勢いると思います。

 

 ですが、不殺生のために菜食主義を

実践しているのであれば、それは誰の目から見ても

明らかに間違いですよね。だって、菜食主義と言っても

野菜や穀物の命は奪っているのですから。

 

 以前ブログにも書きましたが、不殺生戒とは、

不殺生を貫いて生きることは不可能だということを

思い知るのが本来の修行の目的であろうと思っています。

 

 「菜食主義でも野菜の命を奪っている」・・・

それはさておき、私は現在、食品関係の職場に

勤めているのですが、そこで知った事実は・・

かなり受けいれ難いものでした。                 

 

 食品を扱う場所では、衛生上、害虫は絶対NGです。

そのため、害虫駆除のためならかなり残酷だと

思えることでも、平気でやっているのが現状です。

 

 また、私たちが食べている野菜には沢山の消毒が

散布され、害虫とされる生き物たちが殺されています。

穀物にはネズミが入らないようにネズミ駆除がされ、

その他の様々な食品にも、ハエやゴキブリ、蟻などの

害が出ないよう、どれだけの生き物が駆除され、

殺されていることか・・・。

 

 自分の見えないところで、沢山の生き物の命が奪われ、

私はその屍の上で生きているのです。

そのようなこと初めから分かっていたつもりでしたが、

食品関係の職場に勤めて改めて、私という人間は、

沢山の命の犠牲の上にしか生きていけないのだという

事実を突き付けられたのでした。

 

 最後まで読んで下さりありがとうございます。

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コメント
確かに生き物は他の生き物の犠牲の上に成り立ってますね。霞を食べて生きられる訳じゃなし。

魚の中には何億個という卵を産む種もいるけど、それらが全て育ったら、数十年のうちに地球の海はその魚で埋め尽くされます。

命は、そのように設計されているとしか言いようがないのでしょうね。
  • ゆげ
  • 2019/12/20 11:50 PM
返信⇒ゆげ様はじめまして!コメントありがとうございます。

本当にそうですよね。
そのように設計された命の食物連鎖の中で、
自分だけキレイなまま生きてゆけるはずありませんよね。

ですが、このようなことに気付けただけでも
本当に有り難いことだと思いました。
全ての命に感謝できるような気がします。
  • おくら
  • 2019/12/21 9:19 PM
おくらさま
返信ありがとうございます。
ブログをザッと読ませて頂いたのですが、真宗の僧侶の資格を持ってらっしゃるんですね。

私の家は代々門徒です。ご先祖様はたぶん一向一揆をやっていたと思います。(笑)しかしスピリチュアルなどの方に関心があって、真宗の教義をある程度理解したのは最近になってのことです。

さて、真宗で気になっていることがあって、もし良かったら、時間があるときにでも教えてくださると嬉しいです。ややこしい場合はスルーして下さい。

内容;
信前から信後へと遷り変わるとき、なにがしかの「体感」はあるのか?人による?


味わい深い記事、ゆっくり読ませて頂きますね。ありがとうございます。




  • ゆげ
  • 2019/12/22 10:36 PM
返信⇒ゆげ様
オゥノ〜(>_<)
なんちゃって僧侶の私には難しすぎるご質問ですね(汗)

真宗では「信心をいただく」という表現をしますよね。
信心は自力で起こすものではなく、
阿弥陀様からいただくものだと…。

スピ的にいえば、阿弥陀様は自分の意識することのできない
潜在意識のずっとずっと奥に存在すると思っています。
そんな所から発信された信心であるならば、
信心を得たかどうかなんて、
自分では分からないのではないでしょうか。
「体感」があれば分かりやすいのですけど…(>_<)

それでも、顕在意識で受信できた一瞬に、
何らかの感動が生まれることがあると思います。

それは決して特別なものではなく、
例えば花を見てキレイだなとか、夕焼けを見て美しいなとか、
誰かの小さな親切を嬉しく感じた時や、
身近な人を愛おしいと感じた時など、
些細な出来事に心震えるような感動を覚えた時、そんな時が、
阿弥陀様からの信心をキャッチした合図ではないでしょうか。

などと適当なことを言ってすみません(*ノωノ)
思ったままを書きました。
  • おくら
  • 2019/12/23 11:25 PM
おくらさま
真摯に考えて、答えてくださってありがとうございます。

潜在意識のずっと奥とは、阿頼耶識ですね。法蔵菩薩は48願を成就させて阿弥陀仏となるや、私達の阿頼耶識から、「必ず苦の世界から救い出すから、わたしを信じ、南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に全てお任せします)を唱えてほしい。わたしを疑いなく信じて南無阿弥陀仏を唱えようとした瞬間が往生である」というメッセージを私達に送り続けているという理解で良いのでしょうか。

獲信の「体感」は、浄土教徒だから無いのですね。「本願を全く疑ってない自分にふと気付いた。これが自分の信後を初めて認識した時だった」という感じでしょうか。

顕在意識に、心の深い部分から届いた感動が、阿弥陀仏からの他力信心をキャッチできているという合図・・・とても深いですね。

ありがとうございました。



  • ゆげ
  • 2019/12/24 11:38 PM
返信⇒ゆげ様
さすがゆげ様!私の稚拙な文章をキレイにまとめて下さって
ありがとうございます(^^)

そして、ゆげ様のおかげで考えるきっかけを頂きました。
こちらこそありがとうございます。

これからもどうぞよろしくお願い致します。
  • おくら
  • 2019/12/25 9:36 PM
ありがとうございます。
おくらさんにもう一つ、聞いてみたいことがあります。阿弥陀仏の18願についてです。

この王本願が成就されたから、法蔵菩薩は阿弥陀さまになっているわけですが、18願では救いの対象は五逆の者を除く全衆生です。しかも遠い昔の話です。

私たちが未だに迷いの中にあるのは、その前世で救われなかったからということになります。また法蔵菩薩の出離当時のアマゾンの原住民の人たちなどは、法蔵菩薩の存在を知らず、また仏の教えも知らなかったでしょう。全衆生を救って阿弥陀仏になったはずでは?王本願って本当に成就したの?という話になってしまいます。

これをどう考えたら良いのでしょう?

私が一番腑に落ちるのは、「18願の救いの対象である全衆生の定義とは、阿弥陀仏を知っている全ての者」であり、その中で法蔵菩薩の説法を疑いなく信じた者を全て救った(出離させた)ことで仏となったとする解釈です。これなら矛盾は生じないし、皆も阿弥陀さまを信じようよ となると思います。出離当時の阿弥陀仏の偉大さは、だいぶ小さくなってしまいますけど。

でもそうやって実績を積み重ねていったので、出離する人も増えたし還相の菩薩として働いてくれる人も増えて、今や阿弥陀仏は仏界のスーパースターになっている!でも良いのでは?

お時間あるときにでも、見解いただけると嬉しいです。
  • ゆげ
  • 2019/12/26 11:53 PM
返信⇒ゆげ様
これまた核心に迫ったご質問ですね(汗)
私もそこは真っ先に悩んだ部分でありました。
法蔵菩薩の誓願が成就している!?
今の世の中を見ても、とてもそんな風には思えません。

その前に、18願の「唯除く」という箇所についてですが、
基本、阿弥陀様は「摂取不捨」ですよね。
ですので「五逆を除く」という例外はないはずです。
それに関しては、真宗では「抑止の文」と
言われているようです。我々が悪を成さぬよう、
予防のために添えられた文章であるということです。

そこで本題ですが、18願で阿弥陀様が
「心から浄土往生を信じて念仏を称える者は救いますよ!」
と往生するための条件を出しておられるように感じます。
ですがそうなると、救われる人と救われない人が出てきます。
阿弥陀様は、対象を「全衆生」と言っておられるのですから、
たとえ阿弥陀様を知らなくても仏法に出会っていなくても、
全ての人々を救って下さるはずなんです。

どうやら、親鸞聖人のお言葉やお経の文言などは、
言葉尻のみを捕らえて読み解いてはいけないみたいです。
そこで私は、18願でいう「念仏」とはいったい何かを
考えてみました。

念仏というのは、阿弥陀様が、
自分の都合でしか称えることのできない私たちを哀れみ、
代わりに称えて下さって、
それを私たちに振り向けて(回向)下さるものです。

ということは、「念仏」を違う言葉で言い表すと、
自分の想いとは関係なく、つまり自分の想いを手放して、
全てを阿弥陀様にお任せするということです。

これは、スピでいうところの
「アセンションへの道」ではないでしょうか。
私の想いを手放し、阿弥陀仏(阿頼耶識)に感謝することで、
往生(アセンション)出来るということではないでしょうか。

ですのでお釈迦様は、
アセンションへの道を説かれているのであって、
宗教・時代などは本来関係ないのではないかと思います。

縁あって仏法に出会えた私たちは、
たまたま「南無阿弥陀仏」と
称えることができているだけなのだと思います。

長文失礼いたしました。
簡潔にまとめることが出来なくてすみません(>_<)
私の浅はかな一見解です(/ω\)

  • おくら
  • 2019/12/27 8:06 PM
なるほど、「我」から離れ、阿頼耶識に在わす阿弥陀さま(他教徒は別の名前を付けて呼んでいるかもしれない)に全てお任せすること、それが極楽浄土=アセンションした世界への道である。その道を往くための方便の一つが18願の念仏いうことですか。方便は対機説法であるから、ピンと来ない人もいる。とても深いですね。

私は、方便は方便でも仏教の置かれた歴史的経緯の方に理由を見ていました。いずれにしても中身が本物であれば、方便を気にすることでは無いですね。

スピリチュアルですが、かなり広範な領域がありますが、私はニューエイジやニューサイエンスの方に惹かれてました。なのでアセンションは確かにどストライクです。

2000年前後頃は、あと数年のうちに次元上昇するので、不適格者が蒸発するとか、逆に適合者が高次元に行くので蒸発して消えるとか言って怯えたり浮かれたりしている人が多く居ました。論理思考を放棄して人の言うことを鵜呑みにするビリーバーの人たちを見るにつけて、地に足を付けて腑に落ちるまで考えて生きようと思ったものでした。

ありがとうございました。
  • ゆげ
  • 2019/12/28 1:37 PM
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